FA戦士が浴びた「給料泥棒」の罵声 22年前の球宴で起きた”前代未聞”のネット炎上事件

中日時代の川崎憲次郎氏【写真提供:産経新聞社】
中日時代の川崎憲次郎氏【写真提供:産経新聞社】

川崎憲次郎氏は中日移籍1年目のOP戦で「投げたときに『やったな』」

 1998年に最多勝&沢村賞に輝いた川崎憲次郎氏は、2000年オフにフリーエージェント(FA)で12年間を過ごしたヤクルトを離れ、中日に移籍した。大きな期待を受けた移籍1年目だったが、オープン戦で右肩を負傷。2年間はボールを投げることすらできなかった。期待に応えられない自分、治らない肩……。3年目には逃げ出すことを考えるほどに追い込まれていた。

 移籍1年目の2001年3月14日、近鉄とのオープン戦だった。タフィー・ローズに投球した瞬間、今まで感じたことのない痛みが右肩を襲った。「投げたときに『やったな』ってわかった。パキって鳴って、骨が折れたとか筋が切れたとかかなって。長期離脱は覚悟したけど、1か月か2か月あれば何とかなるかなという甘い考えでしたね」。淡い期待はすぐに打ち砕かれた。

 ウエートトレーニングとランニングしかできない。練習が終われば治療に行く毎日。でも症状は改善しない。いくつもの病院を回ったが、ハッキリとした原因はわからず手術もできない。「おかしいな、普通じゃないと思った」と苦しみは深くなるまま、2年のときが過ぎた。

 移籍3年目の2003年は実戦復帰を果たしたが、肩の痛みはずっと続いていた。数え切れないほどのブーイングを浴びた。「給料泥棒」と言われたこともある。「4年目の契約を蹴って、どこかに行ってしまうかなと思った」。そんなどん底のとき、ナゴヤ球場であるひとりのファンが「ナゴヤドームで待っているからな」と温かい声を掛けてくれた。スッと気持ちが晴れ「俺はこの人のために頑張ろうと思った。心を持ち直すことができたんです」と感謝した。

取材に応じた川崎憲次郎氏【写真:町田利衣】
取材に応じた川崎憲次郎氏【写真:町田利衣】

2003年の球宴での「川崎祭」に「あれが“炎上”の始まり。第1弾は俺」

 マウンドに上がれるようになっても、思うような球が投げられないことは自分が一番感じていた。でも「何かがキッカケになるかもしれない」と願い続けていた川崎氏にとっての“何か”が、この男性だったのだ。

 2003年、球宴ファン投票で1位となる通称「川崎祭」が起こった。思わぬ騒動にも、川崎氏は「葉書でちゃんと投票してくれている人もいると聞いて、本当に応援してくれている人のために頑張ろうと。よかろうが悪かろうが名前が出ることはありがたい。あとは気持ちの持ちようですよ」と前を向いていた。今では「あれが“炎上”の始まり。第1号は俺でしょう」と笑う。

 2003年オフには5000万円の大幅ダウンとなる年俸1億5000万円で契約を更改。「とにかく投げられる姿を見てほしい」と誓い、4年契約の最終年に向けて動き出した。そんな川崎氏に、まさかの転機が訪れた。

(町田利衣 / Rie Machida)

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