13年ぶりの再会が紡ぐ物語 津波で自宅失った石巻工球児、震災を経験し見つけた“野球の意義”

石巻工時代に出会った高橋正樹外野手は社会人で野球を続けていた
13年前に出会った高校生は、社会人野球のクラブチームでボールを追いかけていた。100年以上の歴史を持つ石巻日和倶楽部。左胸に「H」の英字が縫いこまれたユニホームに袖を通す彼は、出会ったすべての人々に感謝しながら、地元の宮城県石巻市で野球を続けるのだ。
その試合でのベンチ入りは10人だった。石巻日和倶楽部が陣取る一塁側ベンチは、守備機会を迎えると、どうしても静けさに包まれる。5月24日に行なわれた第96回都市対抗野球第一次予選宮城大会だ。青葉クラブとの初戦を終えてベンチの外に現れた1人に声をかけると、彼は笑みを浮かべてこう語った。
「野球がやりたくてもできない人もいるでしょうから、そういうところも含めて幸せな環境にいさせてもらっています。結果は別として……ウチは『やること』に意義があるチームかなあと思います」
試合は7回コールド負けだった。それでも、「1番・左翼」で出場した高橋正樹外野手は、生まれ育った地にある石巻日和倶楽部で今でも野球を続けていることに喜びを感じるのだ。
もうずいぶんと前の話になるが、かつて石巻市には毛利理惣治という地域で一番の豪商がいた。「石巻野球の父」「石巻野球界の育ての親」とも呼ばれた毛利が、味噌、醤油醸造業を営む「毛利屋」の家業の傍ら、1914年に結成したのが社会人野球チームの「日和倶楽部」(現・石巻日和倶楽部)だった。日本でも指折りの古さ、東北では最古のチームとして長い歴史を紡ぐ現在は、理惣治の孫にあたる毛利光治が監督を務める。そのクラブチームに高橋が加わったのは、高校卒業後すぐのことだった。
「もう14年目になりますね。現在の主将である三浦慎吾さんが、私が中学時代に入っていたチームの先輩。その縁で入りました」
石巻日和倶楽部での野球は「出会った人たちがいたから」
2011年3月11日に起こった東日本大震災。当時、石巻工高の野球部員だった高橋は、3年生になる直前にその震災に見舞われた。海が目の前にあった自宅は津波で流された。野球どころではない日々。それでも、未来に希望を持って歩を進めた。震災当時の記憶と、翌2012年の選抜大会に21世紀枠で出場した石巻工高の軌跡を残そうと、私は「あきらめない街、石巻 その力に俺たちはなる」という一冊を書いた。その取材で、2012年3月に卒業した当時の3年生部員も写真に収めたのだが、そこに高橋の姿も……。一眼レフカメラのフィルター越しに出会っていた彼との13年ぶりの再会だった。
「こうして野球をやっていることもそうですが、『今』のことは、震災当時には考えられませんでしたね」
東北学院大を卒業後、地元・石巻市に戻って水道企業団で働く高橋のその言葉には、今この瞬間を「大切に生きている」、そんな思いが滲んでいるようだった。
30代を迎えている高橋は、今は家族とともに「当たり前ではない」日々に感謝しながら生きている。職場の野球部にも入っている。そして、石巻市は朝野球も盛んな地で、そこでもボールを追いかけているという。「野球は満遍なくやらせてもらっています」。そう言って頬を緩める高橋は、実感をこめて言葉をつなぐ。
「これまで指導していただいた方々、一緒に野球をやってきた人たち、そして家族も含めて、野球を通じて出会ってきたすべての人たちがいたからこそ、今の私がある。人とのつながりがないと、野球はできないのかなあと思いますね」
野球がある日常を噛みしめる高橋が、石巻日和倶楽部のユニホームに別れを告げるのは、まだ遠い未来のようだ。
○著者プロフィール:佐々木亨(ささき・とおる)
岩手県出身。雑誌編集者、フリーライターを経て2024年Full-Countを運営するCreative2に所属。著書に「道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔」(扶桑社文庫)などがある。社会人野球をファンと一緒に盛り上げていくため「stand.fm」やnoteで社会人野球の情報を中心に発信中。
(佐々木亨 / Toru Sasaki)
